ヨハニログ

茶道の流派②

1 三千家

『三千家』については、以前の記事でご紹介させていただきました。

千利休の子孫が興された有名な流派です。

その中でも有名なのは裏千家です。

学校教育や花嫁修業などで一時、さかんに学ばれたからだそうです。

同じ千利休から発したとはいえ三千家はそれぞれ、流派によって違いがあり個性があります。

では、千利休以前の茶道はどうなっていたか?

流派などはあったのか?

などなど、見ていきたいと思います。

※現代、500以上の流派があると言われています。

2 古流(千利休以前の諸流派)

一般的に千利休以前の茶道の流派は『古流』と呼ばれます。

大きく言うと三つあります。

①東山流……能阿弥(1397~1471)

②奈良流……村田珠光(1423~1502)

③堺流………武野紹鴎(1502~1555)

日本の時代でいうと室町時代~戦国時代です。

千利休の生涯が1522年~1591年を考えると妥当でしょうか。

3 能阿弥(1397~1471)・東山流

水墨画であり茶人。そして連歌師で鑑定家や表具師でもあります。

本名:中尾真能

もともとは越前の朝倉家の家臣でした。

のちに足利将軍家に同朋衆として仕えました。(足利義教と足利義政)

同朋衆としては(幕府の)書画等(唐物)の鑑定や管理をしており、東山御物の制定も行いました。

水墨画に優れていて後に阿弥派の開祖となりました。

茶道では書院作を完成させ、連歌では北野天満宮の連歌奉行を務めました。

その他にも立花、香道にも優れていました。

水墨画・茶道・連歌・立花・香道とマルチな才能を開花させました。

4 村田珠光(1423~1502)・奈良流

茶人で僧侶。

『わび茶』の創始者。

父親の村田杢市は検校でした。(検校とは荘官、社寺や荘園の監督役職名です。)

11歳の時に奈良の浄土宗寺院称名寺に入り出家し20歳になる前に称名寺を出ました。

『一休さん』でおなじみ『一休宗純』と親交があったのではと言われています。

能阿弥から書院茶を学んだと言われています。

珠光門下一覧

・古市澄胤…奈良の豪族であり僧侶。小笠原家茶道古流2代目(初代は兄の古市澄胤。)

      四代古市了和が小笠原忠真の茶堂として仕えた。

      村田珠光の『一の弟子』

・興福寺西福院主

・松本珠報…山名氏の元家臣

・志野宗信…京都の商人

・石黒道提

・粟田口善法…京都の侘び数寄者

・鳥居引拙…堺の商人

5 武野紹鴎(1502~1555)・堺流

堺の豪商で茶人。

大和国吉野郡(今の奈良県)の生まれ。若狭武田家の出身。

父親が皮革、武具を扱う皮革商をしていました。

20代の時に家を出て30歳になるまで京都で連歌師をしていました。

当時、公家や朝廷と親交があったようで献金もしていた事もあり『因幡守』に任ぜられています。

30代の時に禅宗で出家し法名である『紹鴎』の名を受けました。

54歳で急死。

お茶の師匠は村田珠光でした。

武野紹鴎のお茶は千利休、津田宗久、今井宗久に継承されいきました。

後に千利休から『術は紹鴎、道は珠光より』と説かれています。

武野紹鷗は村田珠光の『わび茶』を完成させたと言われています。

※他にも足利義輝、荒木村重、辻玄哉、細川幽斎、松永久秀、長谷川宗仁、ノ貫など

 時代の有名人とも親交をもっていました。

6 今も残っている古流『珠光流』

珠光流は奈良派の流れをくむ村田珠光に発する茶道の流派です。

現在は三重県鈴鹿市にある龍光寺を本拠としています。

3代まで家元は村田珠光の血筋で4代目からは鈴木家が後を継ぎました。八代からは弟子が継ぎ途中、朝鮮に赴任していた僧侶が家元を継承されるなど、他とは一味違う歴史の流派のようです。

現存する流派のほとんどが千利休に影響されたことを考えると、『古式』な茶道を体現している流派と言えるでしょう。

7 まとめ

様々な流派がある、茶道。

そもそも、茶人の方々はお茶に何を求めておられるのでしょうか?

室町時代から戦国時代にかけて盛んになった茶道。

答えは“ソコ”のあるのではないか?と私は思いました。

文化の探求を通して解明していきたいと考えています。

最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

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