こんにちは ヨハニです。※本ページはプロモーションを含みます。
今回は池田市についてご紹介。銘酒『呉春』を通して池田市の魅力をお伝えしていきたいと思います。交通の便もよく歴史以外にも観光スポットがありますので是非、この機会にお立ち寄りいただけたらなと思っています。
1 池田市の近代
①大阪にお住まいの方ならご存じ、池田市。隣接した伊丹市のすぐ近くには伊丹空港があり阪急池田駅近くには日清食品のカップヌードルミュージアムがあります。また有名なところで言いますと逸翁美術館、落語みゅーじあむ、五月山動物園、池田市立歴史民俗資料館、ダイハツのヒューモビリティワールドなどがあります。また知る人ぞ知る旧加島銀行池田支店があります。以前放送されていたNHKの朝ドラ『あさが来た』のヒロインが設立した銀行です。また旧加島銀行池田支店の建物は有名な建築家辰野金吾氏によるもので辰野金吾氏は東京駅の設計士としても有名です。
②池田市と言えば小林一三氏抜きでは語れません。阪急電鉄の創業者小林一三氏の住まいは池田市にありました。一三氏の住居は今では小林一三記念館として一般公開されています。阪急電鉄において住宅開発もすすめ日本で初めて住宅ローン始めました。また、池田市室町にて日本で初めての分譲住宅を販売したのも小林一三氏であります。鉄道事業と住宅開発事業により得た収益で娯楽施設の開発も始めました。その内の一つが宝塚にある宝塚歌劇団です。
③一度は食べた事があるのでは?カップヌードルの開発者であり日清食品の創業者である『安藤百福氏』。百福氏は戦後、池田においてチキンラーメンを開発し爆発的なヒットへと結びつけました。阪急池田駅近くにカップヌードルミュージアムがあり毎日、来館者で賑わっています。ここでは具材などを自分でカスタムしカップに絵を描く事が出来るので正に世界に一つだけのカップヌードルを作る事が出来ます。
2 摂津国池田
戦国時代では戦乱で焼かれてしまった池田。豊臣秀吉が全国統一を成し遂げた頃になると池田の町も復興していきました。池田には主要な街道が集まり、人の行き来が増え町は栄えました。①西国街道(京都と西国)②余野街道(池田と亀岡)③巡礼道(箕面の勝尾寺と宝塚の中山寺)④尼崎伊丹道(池田と尼崎)⑤有馬道(西国街道と有馬)など。多くの街道が集まった交通の要衝でした。能勢郡や川辺郡や大坂からも往復1日程度と地理的な条件から物資の中継地としての役割が池田にはありました。池田は北摂の物流の一大拠点となり、商工業者が集住する小都市的な集落『在郷町』として成長しました。
1697年には池田村には1437戸もありました。その半分近くの641戸が職人さんで農業以外で家計をたてていました。多い順①日雇い163戸。主に酒造や物資の輸送業②糸引き118戸。糸をつむぐ賃労働者。池田木綿として有名。特産物の一つ。③酒屋32戸。
池田の酒造は戦国から江戸時代初期にかけて始まり1697年には上方から江戸に送られた樽の約1割を占めるにいたりました。おなじみ伊丹の酒と同様、『くだり酒』と呼ばれ江戸では好評で銘酒とされていました。
在郷町池田では、こうして集積した豊かな経済力を背景に酒造家や問屋商人などの旦那衆たちが俳諧・和歌・漢詩文・絵画などに雅懐をよせ文化的素地を高めていきました。その中で芸術家や文化人たちのパトロン的存在にもなり、多くの芸術家や文化人が池田に来遊や来往しました。
3 池田の酒・呉春
①呉春とは
上記で触れましたが文人の一人が呉春です。
呉春は江戸時代中期の絵師で四条派の始祖。
本性は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)。字、通称、号は様々ありますが号の『呉春』と画号の『松村月渓』が広く知られていると思います。
もとは京都の金座年寄役の家に六人兄弟の長男として京都境町通四条下ルで生まれました。初めは家業を継ぎ金座の平役を務めていました。金座は平役でも収入が多く家は裕福だったそうです。非常に手先が器用だったそうです。そんな呉春が絵を学び始めた時期は不明だそうです。1773年には与謝蕪村の内弟子として入門し俳諧や南画を学びました。途中、金座を辞めて本格的に俳諧師や絵師として身を立てていきました。
そんな呉春ですが1781年3月には妻の海難事故、同8月には父を相次いで失いました。傷心を癒すためか剃髪し蕪村の勧めで池田市に転地療養しました。この地の古名である『呉服(くれは)』で新春を過ごした事にちなみ、呉春、伯望の画号を名乗るようになる。ただし、『月渓』の名は俳号としては終生用い続けました。俳画や俳諧では『月渓』を名乗っています。師である与謝蕪村の死後、円山応挙に接近していきました。呉春の画派は四条派と呼ばれるようになりました。
②日本酒・呉春
日本酒の『呉春』は呉春株式会社が醸す日本酒です。
造り酒屋としての呉春は1701年ごろが創業と言われています。そして、呉春の名が使われるようになったはのは、1847年頃からと言われています。日本酒・呉春は五月山から流れる地下水脈の伏流水を仕込み水として使用。呑み飽きしない五味調和のとれたスッキリタイプの酒質です。呑みやすい日本酒です。
③日本酒・呉春の名前の由来
〇松村月渓→松村呉春
△呉春(人名)→呉春(日本酒)
なぜ日本酒・呉春が『呉春』になったのか明確な事がわかりませんでした。すみません。漠然と松村呉春さんが池田市で活躍されていたからかな?とはわかりましたが💦
3 まとめ
現在、池田市には『呉春』と『緑一』の2軒の酒蔵しかありません。江戸中期の最盛期には38軒の酒蔵がありました。
灘・伊丹の台頭などがあり衰退していったようです。でも、その中でも『呉春』や『緑一』のように北摂を代表する銘酒が池田には残っています。
日本酒の歴史だけ見ても奥が深い池田市。一度、お立ち寄りください。現在も江戸期と同じように交通のアクセスは抜群です。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。