こんにちは ヨハニです。 ※本ページはプロモーションを含みます。
今回は亀岡市西つつじヶ丘の小高い丘に建てられた首塚について。ここには宇治で戦死した源頼政の遺骸が埋められているそうです。意外な場所に!?その時代と歴史をご紹介させていただきます。
1 源頼政
平安時代の1104年~1180年に生きた武将であり公卿であり歌人です。祖先は鬼退治で有名な源頼光です。もっとさかのぼると川西市多田を拠点とした源満仲にいきあたります。
どんな人?
鎌倉幕府で有名、源頼朝が発起するより少し前に平家打倒を掲げ立ち上がった人です。結果は準備段階で計画が漏れ逆に平家に追討されてしまい自害においこまれました。年齢からみて、この時の源頼政は御年77歳。当時としては、かなりのおじいちゃんだったようです。老将がたちあがった感がありますね。
それまでは?
それまでの頼政は源氏の長老として平家が牛耳る京都中央政界で活躍していました。また、頼政を信頼した平清盛によって推挙され武士としては破格の従三位に昇り公卿に列しました。
その後?
平家の専横に不満が高まる中、後白河天皇の皇子である似仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の命旨を伝えました。しかし先ほど触れましたが計画が途中で露見してしまい準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れて自害しました。
2 源頼政による『ぬえ退治』の伝説
鵺(ぬえ)
日本の昔話に出てくる妖怪です。
〇その姿は、顔は猿、胴体は狸、四肢は虎、しっぽは蛇。物語によっては胴体が虎であったり何も書いてなかったりするようです。
〇鳴き声は『ヒョーヒョー』という………気持ち悪い。
〇古くは『古事記』や『万葉集』に名前が出てきます。
源頼政による『ぬえ退治』
『平家物語』や『摂津名所図会』にこの『ぬえ退治』が出ています。
平安時代末期に天皇の住む御所・清涼殿に毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。ついに天皇は病の身となり薬や祈祷をもってしても効果はなかった。そこで側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、当時弓の達人とされていた源頼政に怪物退治を命じました。頼政はある夜い家来を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓『雷上動』(らいしょうどう)を手にして怪物退治に出向きました。結果、無事に鵺を射止める事ができて家来の猪早太がとどめをさしました。これにより天皇の体調もたちまちにして回復した。褒美に天皇から『獅子王』という刀を貰賜しました。
史跡
①鵺塚1(阪神芦屋駅近く、松浜公園の一画)
『平家物語』で川に流された鵺を葬ったとされる塚。
②鵺塚2(大阪市都島区)
『芦分船』で淀川下流に流れ着いた鵺を葬ったとされる塚。
③鵺塚3(京都府、岡崎公園運動場付近)
京都の清水寺に鵺を葬ったという伝承との関連性は不明。発掘調査の結果、古墳時代の墳墓であることが判明。
④鵺池(二条城北西の上京区主税町、二条公園にある池)
頼政が鵺を射抜いて血塗られた矢を洗ったとされている。
⑤神明神社(京都市下京区)
頼政が鵺退治の前にここで祈願し、見事退治した例と言って矢じりを奉納したという。
⑥矢根地蔵(京都府亀岡市)
頼政が鵺退治の際に守り本尊である地蔵菩薩に願をかけたところ、夢枕に地蔵が現れて矢田の鵺山の白鳥の羽で作るよう告げた。普段は非公開だそうです。
⑦長明寺(兵庫県西脇市)
頼政の所領地。寺の境内には頼政による鵺退治の像がある。寺のそばの矢竹藪という竹藪は、頼政が鵺退治の矢に用いる竹を採取したと言われる。
3 源頼政の墓所
先ほどから源頼政の事に触れてきましたが『鵺退治』のように伝説があったりするところからも見てわかる通り、今残っている頼政の軌跡にはある程度加工された事柄も入っているように感じます。
同じように墓所も複数あります。『事実』なのか『人々の願望』なのかは今となっては知る由もありません。
わかっている所は次の通りです。
①終焉の地である京都府宇治市の平等院。
頼政の命日である5月26日には毎年法要が営まれています。
②岐阜県関市の蓮華寺。郎党の猪早太らが頼政の叔父源国道の美濃の領地に首を持ち運び葬ったとの伝承が残っています。
③茨城県古河市の頼政神社。郎党の下河辺氏が主を祭ったと伝わっています。こちらにも頼政の首塚伝説があります。
④京都府亀岡市西つつじヶ丘。頼政塚。頼政の首塚と言われています。頼政の遺骸がここに埋められた理由として、丹波矢田郷が彼の領地の中でも最も宇治に近かったからといわれています。江戸時代に近辺の僧侶が存在を疑って塚を掘り起こしてみたところ、石棺があったと言われています。亀岡市篠町浄法寺の国道9号線に頼政塚の交差点があり、京阪京都交通にも頼政塚バス停があります。
⑤兵庫県西脇市の長明寺にも頼政の墓があり周辺にはゆかりの地とされる場所が残っています。また境内には鵺退治の様子を再現した銅像が有名です。この長明寺のある兵庫県西脇市高松町辺りは、かつて源頼政の領地でした。そのため頼政ゆかりのものが多いです。
4 摂津源氏
源頼光を祖とします。頼光は多田神社で知られる源満仲の嫡男で清和源氏の嫡流として多田荘を領しました。摂津源氏は摂津国や美濃国で武士団を形成し、多田氏、馬場氏、能勢氏、土岐氏、山県氏らを輩出しました。摂津源氏は『朝家の守護』と称された満仲、頼光の流れを汲む摂津源氏は代々、大内守護(内裏警備、天皇護衛)の任についていました。
源頼光は満仲伝来の本拠地の摂津国川辺郡多田(現・兵庫県川西市多田)の地を相続し酒呑童子、茨木童子討伐、土蜘蛛退治の伝説を残しました。また、摂津源氏はもっぱら京都で活動する武士であり、公家の日常に奉公する機会も多く、武道はもとより文や和歌にも長じました。その流れを汲む頼政も和歌も出来、文武両道の印象があります。頼政は頼光の孫にあたります。
5 平安時代
〇源頼朝による『鎌倉時代』までの764年~1185年を『平安時代』と呼びます。約400年間になりますね。意外と!?長い。この間に今の大河ドラマ『光る君へ』や源氏発祥の地・多田=源満仲、そして武士の世になる源平合戦が入っています。改めて見てみると、とても濃い時代だったんだなと感じます。ですので平安時代は前期・中期・後期の三つに分けて考えられる事が多いです。
〇今更ですが私は歴史好きです。その中でも、というより、この二つ『戦国時代』と『明治維新』が好きでした。そう、過去形です。今はそれ以外の平安時代にも興味が湧いています。大河ドラマの影響もありますが、調べていくと身近なところに平安時代の史跡などがあります。日常生活においても地名など、平安時代の事柄からきているものがあります。
6 まとめ
ここまで、源頼政を通して『摂津源氏』と大河ドラマの時代背景『平安時代』を見てきました。
関西在住の私からすると『亀岡市』にある!こんな史跡がある!とても、興味深いです!!
何てことない日常の風景に映りこむ非日常。街角に急に史跡が現れた感じです。※私が知らなかっただけなんですが。
他にも沢山、あるはずです。今後も気になる事は知らべていきたいと思います。
さて、皆さんはどうでしょうか?皆さんの身近にもあるはずです。そう、調べてみれば貴重な史跡が。これをきっかけに色々と調べてみるのも良いのではないでしょうか?
京都府亀岡市に行かれる事がありましたら、是非『頼政塚』によってみて下さい。亀岡盆地を一望できるくらい景色も良いそうです。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。